アルフレッド・リードの伝説 REED LEGEND
第2回 コンクール課題曲になった《シンフォニック・プレリュード》
前回述べたように、リードの《シンフォニック・プレリュード》は、1965年の全日本吹奏楽コンクール「大学・一般の部」課題曲に採用された。また、同年、自由曲に《音楽祭のプレリュード》で全国大会に臨んだ団体もあった。
よって、この1965年あたりが、ほぼ、日本においてリードが本格的に演奏され始めた年ともいえるのだ。
来たる1月21日(土)に横浜みなとみらいホールで開催されるシエナWO第20回定期演奏会はオール・リード・プログラムだが、当日は、 その2曲とも演奏される予定だ。 今回は、その、初めてコンクール課題曲に採用された《シンフォニック・プレリュード》について述べたいが、その前 に......。
そもそも、これ以前、コンクールでは、どんな曲が課題曲だったのだろうか。
■国産マーチの時代から......
全日本吹奏楽コンクールの第1回が開催されたのは戦前の話で、1940(昭和15)年のことである。この年から3年連続で開催されたが、 戦争のため一時中断。戦後は、1956年(昭和31)年の第4回大会から再開された。戦前の課題曲は、すべて、国威発揚の軍事行進曲で、これはまあ、当時 の情勢からして、致し方ないことだろう。
では、戦後は、どんな曲が課題曲に採用されていたか......順・部門不同で挙げると......《トム・タフ》(ビンディング)、《大空》(須磨洋 朔)、《エル・カピタン》《マンハッタン・ビーチ》(スーザ)、《先頭指揮官》(ベネット)、《剣と槍》(スターク)、《剛毅潔白》(タイケ)......要する に、すべて既存の有名マーチばかりなのである。
(私事になるが、上記の曲は、1971年、私が中学で入った吹奏楽部に、ほとんど楽譜があった。今になってみれば、コンクール課題曲だったからこそ、揃っていたのだろう。《トム・タフ》は、小学校で朝礼の集合BGMだったし......)
前回も少々触れたが、この頃、吹奏楽は、まだまだ「マーチを演奏するもの」といった認識が強かった。もちろん、マーチが、吹奏楽における 重要なジャンルのひとつであることは否定しないが、現在から見れば、隔世の感を覚えるのは私だけではないはずだ。しかも、コンサート・マーチというより は、実用行進曲的な曲が多かったのだから......。
そんな状況が少しばかり変わったのは、1959(昭和34)年の第7回大会だった。この年、故・團伊玖麿が皇太子(今上天皇)ご成婚を 祝して作曲したコンサート・マーチ《祝典行進曲》が、「高校の部」の課題曲に指定されたのだ。戦後初めて、日本人作曲家によるオリジナルのコンサート・ マーチが課題曲になったのである。
(ちなみに、先述《大空》も日本人による作曲だが、これは、1951=昭和26年に、警察予備隊=現在の陸上自衛隊の、創設1周年記念観 閲式のために作曲されたもの。それが、1956=昭和31年になって、コンクール「一般・大学の部」課題曲に採用されたわけで、《祝典行進曲》の場合と は、少々事情が違う)
その後、課題曲は、日本人作曲家によるマーチが頻繁に採用されるようになった。この時期の作曲家名を見ると、片山正見、須磨洋朔、川崎優といった名前が見られる。
そんな国産ムードが突如として変わるのが、1965(昭和40)年である。
この年の課題曲は、「中学の部」が、序曲《ティアラ》(コフィールド)、「高校・職場の部」が、歌劇《パリスとヘレネ》序曲(グルック)......まるで、洋風オリジナル&クラシック大会と化したかのようだ。
(【注】《パリスとヘレネ》は英語読みタイトル。通常、イタリア語読みで《パリーデとエレーナ》と呼ばれている、名作オペラのこと)
序曲《ティアラ》は、雄大で美しいコンサート・オリジナル作品。歌劇《パリスとヘレネ》序曲は、バロック・オペラの巨匠による作品で、その編曲版。
そしてもう1曲、「大学・一般の部」向け課題曲が、リードの《シンフォニック・プレリュード》であった。
■アメリカ民謡をもとにして
これに関しては、吹奏楽指導者で研究家でもある秋山紀夫氏が、たいへん重要な証言を記している(佼成出版社のリード作品CDの解説などより)。
それによれば、上述のように、国産マーチ中心だった課題曲が、1964(昭和39)年に、初めて序曲スタイルの課題曲となった(中学部門:石井歓の序曲《廣野をゆく》、他部門:兼田敏の《バンドのための楽章「若人の歌」》)。
そして、翌1965(昭和40)年も、続けて序曲スタイル課題曲が予定されていたが、準備の関係で邦人作品が間に合わず、ちょうど、アメ リカから秋山氏が帰国したばかりだったので、同氏のコレクションの中から、アメリカの既成楽譜を採用することになった。それが、上述の、序曲《ティア ラ》、歌劇《パリスとヘレネ》序曲、それに、リードの《シンフォニック・プレリュード》だった......というのだ。
何となく、怪我の功名みたいな話である。、
前回、《音楽祭のプレリュード》が、リードの本格的吹奏楽曲としては、おおよそ10作目にあたり、しかも、「コンサート・バンド」としての理想的な編成・構成を実現させた、ほぼ最初期の作品であることを述べた。
《シンフォニック?》は、作品史的にいうと、《音楽祭?》直後の作品である。《音楽祭?》の初演が1957年?出版が62年。それに対 し、《シンフォニック?》は、初演も出版も1963年。つまり、この2曲は、つづけて世に出た、兄と弟のような関係にあるのだ。現に、編成も、打楽器群を 除けばほぼ同じである。
この曲の正式題名は、たいへん長い。《シンフォニック・プレリュード?『黒は我が恋人の髪の毛の色』による》という。
つまり、『黒は我が恋人の髪の毛の色』なるアメリカ民謡があり、その旋律が使用されているのだ。
既存のメロディをもとに、オリジナル吹奏楽曲を作曲することを、リードは比較的早くから試みている。
たとえば、1954年の《ランバージャック序曲》は、アメリカ民謡4曲をもとに構成されている(この曲は、最初の出版後、長いこと埋もれていたが、1989年になって改訂出版が実現している)。
また、1961年の《グリーンスリーヴズ?バンドのためのファンタジー》は、文字通り、有名なイングランド民謡『グリーンスリーヴズ』を編曲したもので、現在も、同メロディの、最も美しく正統的な吹奏楽版編曲として知られている。
ほかにも、同年に作曲された《宗教曲組曲》では、プロテスタント教会で歌われている有名な賛美歌など7曲を編曲している。
だが、それらは、既存のメロディを使用してはいるが、どちらかといえば、主題をストレートにアレンジしている感が強かった。
その一線を越え、既存メロディを使用しながら、音楽的にも構成・展開の上でも、格段の飛躍を遂げたのが、1963年の《シンフォニック・プレリュード》である。
ここで使用されたアメリカ民謡『黒は我が恋人の髪の毛の色』は、せいぜい数小節かと思われる、断片的なメロディである。歌詞は、男性の視 点で、この世を去った彼女を悼んだ悲恋の歌のようだ。今でも、アメリカで出るライト・ミュージック系のCDには、しばしば収録されており、それなりに知ら れた曲なのだろう。
(余談だが、リードは、この民謡を気に入っていたのか、後年、同じ民謡主題をもとにした木管アンサンブル曲も作曲している)
アメリカなる国は、ネィティブの時代を除けば、その文化要素の多くは、イングランドやアイルランドからの移入が原典にある。この民謡も、 一説には、アイルランドの船乗り歌が元祖であるとの説がある一方で、1740年頃から、純粋にケンタッキー周辺で歌われていたメロディだとの説もあり、よ く分かっていないようだ。
冒頭には「Molto Moderato(fairly broad,without dragging)」なる指定がある。「十分に中庸の速度で(適度な雄大さを持って、引きずらずに)」といった感じか。
指定どおり、曲は、ゆったりと開始される。バックでは、ティンパニと弦バスが、四分音符のD音を、控えめながら、えんえんと刻む。ブラー ムスの交響曲第1番冒頭のようだ。そして、サブタイトルの民謡の主題が登場し、変奏曲風に、じっくりと進んで行く。最後まで、ゆったりしたまま進み、テン ポが速まったりする部分は、まったくない。宗教曲を感じさせる部分もあり、全体の印象は、パッサカリアかシャコンヌのような、重厚な深みに支配されてい る。2005年の現代の視点から見れば、かなり特殊な課題曲にも感じる。
確かに、木管が細かいパッセージを披瀝したり、トランペットが高音を出す部分もない。楽譜だけ見れば、実に簡単に見えてしまう。だが、 ここでリードが表現しようとしたことは、外見とは裏腹に、もっと深遠に迫る何かだった。後年、リードは、シェイクスピア文学などをもとに、深い音楽を書く ようになるが、その萌芽が、この作品には感じられる。
スコア冒頭には「ハートフォードシティ高校シンフォニック・バンドに献呈された」とある。1963年に、インディアナ州で開催された全米バンド指導者協会の総会で、リードの指揮、同高校バンドの演奏で初演された。
この《シンフォニック?》は、おそらく、リードにとって、全米バンド指導者協会の総会のために作曲した、第1号作品のはずである。想像す るに、1957年初演?62年出版の《音楽祭のプレリュード》の好評を受けて、今回の起用に至ったのではないだろうか。リードは、この後、同協会のイベン トのために、多くの作品を作曲することになる。
■「名作の森」時代を前に
《シンフォニック?》が「大学・一般の部」の課題曲になった1965年のコンクール全国大会では、「大学の部」の1位が関西大学(関西/大阪代表)、2位が神奈川大学(関東/神奈川代表)、3位が中央大学(東京代表)だった。
「一般の部」は、1位が公苑会吹奏楽団(東京代表)、2位が船橋吹奏楽団(関東/千葉代表)、3位がコンセール・リベルテ(東海/静岡代表)である(当時は、金銀銅賞評価ではなく、順位賞評価)。
この頃、全国大会「中学の部」では、歴史に名を残す、西宮市立今津中学校(関西/兵庫代表)と、豊島区立第十中学校(東京代表)の"対決 "も始まっていたし、「高校の部」では天理高校(関西/奈良代表)も1位となっており、戦後最初の"吹奏楽黄金時代"ともいうべき時期が始まっている。
リードは、そんな時期に、《シンフォニック・プレリュード》で日本に初登場したのだった。
さらに5年後の1970年には、弟分にあたる名曲《音楽祭のプレリュード》が、「中学の部」を除く全部門の課題曲となり、作曲家アルフレッド・リードの名は、確実に日本全国に定着することになるのだ。
その頃、リード本人は、どうしていたか。
実は、当時のリードは、まさに「名作の森」時代とでも言いたくなるほど、傑作群を続々発表する時期に足を踏み入れかけていた。リードの黄金時代と、日本吹奏楽界の黄金時代とが重なる、夢のような時代は、もう目の前である。



